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伏見の歴史 秀吉の見た伏見の景観

Posted by kazunhana on 23.2015 伏見学 0 comments 0 trackback

久々に伏見連続講座にやってきます。伏見区役所の会議室がギュウギュウです。
もう少し遅いと、立ち見でした。年を取ると歴史好きになるというのを実感します。今さら、数学、物理でもないというところでしょうか。
今日は秀吉の見た伏見の景観として、指月城、伏見城、宇治川、淀城、向島城などの歴史的解説を聴きます。講師は京都文教大学の小林先生です。
伏見の桃山は、今でも大名屋敷に起源を持つ町名がたくさん残っています。だから、桃山を歩いていると、その時代のことに思いが馳せます。地元の人に歴史ファンが多いい理由かもしれません。
今回、豊公伏見城ノ図を貰いました。これは役に立ちます。大名屋敷の位置が良く分かります。

伏見連続講座

Posted by kazunhana on 18.2014 伏見学 0 comments 0 trackback

久々に伏見連続講座に行きます。
今年も盛りだくさんの講座があります。

今日は伏見区役所にやって来ます。
伏見城の今昔物語集そのⅡというテーマで、元桃山高校教諭をされていた山本眞嗣さんです。
伏見城の歴史を改めて勉強できました。300人くらい受講されていたと思います。

近世の伏見展

Posted by kazunhana on 19.2014 伏見学 0 comments 0 trackback

京セラ本社内にある京セラ美術館に来ます。
近世の伏見展が開催されているからです。
出土品などが展示されています。

伏見連続講座 淀城発掘

Posted by kazunhana on 29.2014 伏見学 0 comments 0 trackback

久しぶりの伏見連続講座です。
伏見区役所にやって来ます。
最初に御香宮神社の三木宮司のから淀城との関わり、昭和62年に伏見城研究会が淀城天守台跡の発掘調査を行ったなどのお話しを聞いてから、滋賀県立大学の中井均先生の淀城発掘について、話を聞きます。先生は小六の時、淀城跡に魅せられてから、城キチになったとのこと。
かつて十万石のお城がここまで、ずさんに放置されているのは、京都市内にあるが故とか。地方都市なら天守閣なども復元され、観光名所になっていたと思われます。
三川が合流する水運の要衝として栄えた城下町。今や伝説の城下町といえます。今は住宅街になっており、面影はありません。

伏見学 伏見連続講座

Posted by kazunhana on 01.2012 伏見学 0 comments 0 trackback

土曜日です。
聖母女学院に来ます。
今日は、天理大学の西野由紀先生による「伏見と観光-近世から近代への変貌-」です。
天皇の御陵というものの変貌について、分かりやすく解説されます。
史料として「都名所図会」を基に話を進められるのですが、名所図会とは今の観光ガイドブックみたいなものです。
移動の厳しい江戸時代においても、お伊勢参りのように神社仏閣に参ることは許されていて、それにかこつけて名所をウロウロというのが流行りました。都名所図会はそんなガイドとなるものです。京都は都であり、歴史もあり、いろいろな解説本が江戸時代に出ています。都林泉名所図会もあります。これらも集めて読んでみたいものです。
先生の話に戻ると、伏見には平安京開祖の桓武天皇陵がありますが、江戸時代までは墓として、明治以降のような聖地にはなっておらず、近くまで行けたり、隣の山から見下ろして、宴会をする図会もあります。大らかだったようです。名所(などころ)と名所(めいしょ)の違いを説明されます。などころとは、中世以前に和歌集にもあるように、詠まれた地名などです。深草野(ふかくさの)などです。
江戸時代までは、御陵は墓なので、などころにはなっておらず、新たに紹介するめいしょという形で、名所図会などで知られることになります。明治に入り、聖地として厳重に管理されるようになってから今日に至っています。
皇統を正当なものとするため、陵墓を特定することも必要だったようです。
僕の家から、桓武天皇、明治天皇陵には歩いていけるのですが、歴史の重みを感じます。

ここをクリック

クリックしてもらうと、国際日本文化研究センターの公開史料「歴代御陵巡拝図絵」が出ます。
昭和3年の作成です。綺麗な図絵です。
歴代天皇陵を巡拝するためのガイドです。裏面には所在も書かれています。
図絵の右下に富士山が描かれています。関西にしか御陵はないはずなのに何故、そう、大正天皇は多摩にあるからですね。
圧倒的に京都に多い御陵、天皇陛下には京都にお戻りになるというのが自然というものです。国事行為は京都でやったら良いのです。

伏見学2012 「伏見連続講座」

Posted by kazunhana on 24.2012 伏見学 0 comments 0 trackback
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今日は土曜日です。
恒例の聖母女学院にやって来ます。
今日の講師は、五島邦治先生(京都造形芸術大学客員教授)です。「伏見をとりまく芸能者たち」と題して、「看聞御記」の内容から話をされます。
ちょうど1年前も、同先生のお話を聞きました。
今回も室町時代の貞成親王の日記である看聞御記の中から、芸能者についての話をされました。
伏見に隠棲した伏見貞成親王のもとに多くの芸能者がおとずれ、芸を披露し、それについての批評が貴重な芸能史を物語ります。
当時は、義満と観阿弥、世阿弥親子の話は有名ですが、能、狂言の前身、大和猿楽四座などをはじめ、各地にほんつに多くの芸能者がいたようです。
琵琶法師としての検校、座頭市もその官名のひとつということです。
世の中を風刺すると言うことは、昔からよくあったことですが、この御記にも狂言のことが書いてあるようです。公家の貞成親王を前に、公家の落ちぶれ、生活が苦しいことを狂言にして、親王が怒り出し、責任者を叱りつけたよう。すると、その責任者はそんなことをするとは知らなかったと言い訳します。
実際、狂言は即興も多く、その場でやった可能性もあります。
目の前の客を狂言することは現代でも嫌がられるでしょうね。公家だからバサッとはなかったと思いますが、武士相手にすると、危ないこともあったのではないでしょうか。
笑いはいつの時代も共通なのでしょう。娯楽のない時代、こういう芸能は今以上に衝撃だったと思います。

伏見連続講座 「伏見の魅力を再発見」

Posted by kazunhana on 17.2012 伏見学 0 comments 0 trackback

土曜日です。伏見連続講座でチキチキと伏見区役所にやってきました。
最近は盛況です。
以前は、伏見城研究も堀内昭博先生が頑張っておられましたが、昨年末、急逝されたとのこと。大変残念なことです。
本日は、まず御香宮神社の三木宮司さんがお話をされます。
宮司が代表をされている伏見城研究会は昭和40年代にスタートされ、頑張ってこられました。伏見城は秀吉が築城し、その後天下人となった家康が入城します。これは世間に天下人となったことを知らしめるには、伏見城が必要で、家光まで伏見城で将軍宣下をします。まさに、伏見が政治の中心地であったということです。また、公認の銀座発祥の地という経済、物流の中心地でもありました。

宮司さんの後は、元大坂城天守閣館長の渡辺 武先生です。
伏見城の天守台が大坂城や江戸城と同等以上の大きさがあったようです。
改めて、指月城の話を聞いて、ロマンが膨らみます。
大坂城天守閣の壁に虎のレリーフがあったようです。大阪夏の陣屏風を拡大すると描かれています。秀吉が朝鮮からの生け捕りの虎を見て、その強さに憧れたのではということです。清正の虎退治の話がありますが、朝鮮半島で実際に武将達が5ヶ月間、秀吉のために虎を捕まえろという命令を受けていたようです。
昔はたった一人のために、えらい目に遭うという典型の話ですね。

伏見連続講座 伏見学「桃山文化と香」

Posted by kazunhana on 27.2012 伏見学 0 comments 0 trackback
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今日も聖母女学院に来ました。
今日の講師は(株)松栄堂の畑 正高社長です。
この方、京都府の教育委員会委員長もされています。
お香の話をされます。桃山文化との関係は難しいところがありますが、仏教伝来とともに入ってきた香は、茶の湯文化との関係が強いです。
足利義政、竹野紹鴎、村田珠光、千利休と桃山文化につながってきます。

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香に使われる香木ですが、写真は講座で参考にさわらせていただいた向こうが白檀、手前が沈水香木です。
香木は日本では育たないようです。熱帯の条件が整ったところだけのようです。畑社長も自宅の温室で育てているとか。しかし、樹脂の定着などは人工では難しいようです。ですから、貴重なものとして、金よりも高いとか。
米とお茶も日本に入ってきて、日常茶飯事という言葉になったが、香は日本で取れないので非日常ということらしい。
沈香木で蘭奢待(らんじゃたい)という名の名香木が正倉院にあります。平城遷都1300年の正倉院展で見たと思いますが、講師はこの話もされます。
蘭奢待には、東大寺という文字が隠されていますが、この木は1.5m位の物で、これを切り取って香としたのは、天下人のみです。足利義満、義政、織田信長、明治天皇などです。
切り取った箇所に織田信長が切り取った後とかの紙が貼られています。天皇の許可がないと切り取れない至宝であったということです。
この木はベトナムのジャングルでしか手に入らないとか。

また源氏香図の話もされます。
五十四帖のうち、桐壺と夢浮橋には香図がないのでしょうか。

伏見連続講座~伏見学2012~醍醐の美

Posted by kazunhana on 20.2012 伏見学 0 comments 0 trackback

またまた聖母女学院にやってきました。
伏見連続講座の中の伏見学2012です。
今日は醍醐の美~命がつむぐ祈りの伝承~という演題で、醍醐寺の執行総務部長の仲田順英氏です。自己紹介でも言われましたが、醍醐寺みたいな総本山の総務部長とかは相当高齢な方が多い中、52歳という若いのは珍しいそうです。座主の方針もあり、40代で何人か部長職に就かれたようです。
醍醐寺は洛中から離れていることもあり、応仁の乱とか、戦乱、大火を逃れて、五重塔は京都府内では一番古い建築物となっています。
古文書については、ここ100年かという気の遠くなる年数をかけて目録を作成されたようです。併せてこの20年間でデータベースも整備されました。これが、予定では来年春に国宝に指定されるようです。
他のお寺などでは、明治の頃、廃仏毀釈のみならず、農地解放でお寺の荘園収入が減り、入ってきた欧米人に古文書を売って収入を得たようです。せっかくの古文書が散逸してしまいました。しかし、この醍醐寺ではその流出を防いだようです。そのおかげで、織田信長や春日局などの書状が見つかったようです。新たな歴史が分かるかもしれません。
醍醐寺は文化財が63,000点以上あるとのことです。でも、ただ古いだけでは国宝にはならないようです。寺宝と言うことでは15万点という恐ろしい数です。
醍醐寺は秀吉公の花見で有名ですが、上醍醐からの景色も素晴らしいです。山には1度しか行ったことがないのですが、本当に京都のお寺のすごさを感じます。境内はこの上醍醐を入れると2百万坪とか。
同じ伏見区内なのでまた散歩がてら行きたいと思います。

伏見連続講座「伏見学2012」伏見稲荷大社

Posted by kazunhana on 29.2012 伏見学 0 comments 0 trackback
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1年ぶりの伏見学講座です。
チキチキと聖母女学院短期大学本館にやってきます。
15分前に到着しましたが、早い人は1時間半前に来たそうです。
僕らが来たときには、ほとんど一杯で机には有り付けません。
今日のテーマは伏見稲荷大社ーいま むかしーです。
講師は伏見稲荷大社の禰宜の岸 朝次さんです。
伏見に住むものとしては、お稲荷さんは特別なものです。
初詣には250万人がお詣りするというものすごいところです。現在、全国で神社が9万社あるようですが、そのうち、3万社が稲荷神社とのこと。
渡来人秦氏によって、701年に松尾大社が、711年に稲荷大社が創建されたようです。
もともと五穀豊穣信仰から、商業が盛んになると、商業神へと拡大してきました。

御祭神は 宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)で、素盞嗚尊と神大市比売(かむおおいちひめ)との間に生まれた衣食住を司る稲の精霊であり、穀物の神とされているようです。

また、稲荷山に登りたいですね。稲荷山は東山三十六峰の最南端になります。
しかし、皆さん熱心ですね。それぞれ歴史でも好きなジャンルがあるんでしょうね。

伏見連続講座(伏見学)「室町時代の一公家の目に映った伏見」

Posted by kazunhana on 19.2011 伏見学 0 comments 0 trackback
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今日は19日土曜日。
伏見連続講座のために、雨の中、聖母女学院までやってきます。
今日の講師は、京都造形芸術大学客員教授の五島邦治先生です。
演題は「室町時代の一公家の目に映った伏見-「看聞御記」の世界-」です。

先生の話によると、伏見区の歴史編纂に携わったとき、伏見に関する文献があまりにもなかったと。それは鳥羽伏見の戦いで焼けてしまったということらしい。
そういう状況の中で、公家は当時、日記をつけることが仕事でもあったらしく、日々の行事などを後生に伝えるためでもあったようです。
そこで、光厳天皇の曾孫で、崇光天皇の孫の貞成親王の日記から、伏見を見てみることとされ、それを紹介されます。
当時、伏見は農村地帯であり、親王はそもそも、隠棲を命じられるのですが、そのときの生活ぶりが面白いようです。
たとえば、鶏、これは室町の頃までは、公家の家のみで、飼われ、食されることもなく、たまに闘鶏として遊ばれたようです。そもそも、時、方角が重要であった公家の生活には、朝の刻を鳴いて知らせてくれる貴重な生き物として神聖なものだったようです。
ですから、庶民は鶏を飼うことはなく、鴨とかを食べていたのではということです。
また、当時は、能楽のもととなった猿楽の模様を記しているようですが、他にもたくさんの芸能が紹介されていて、そのあまりにもの多さにびっくりということです。
村人の風流踊りなど、この時代の風俗がよくわかるようです。
こういった日記が現代口語で読めるなら、読んでみたいものです。古文書では難しですよね。

伏見連続講座「伏見築城とその時代」

Posted by kazunhana on 29.2011 伏見学 0 comments 0 trackback
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午前中の食文化の祭典に続き、午後は伏見区役所にやって来ます。
まずは、腹ごしらえに大黒ラーメンチャーシュー大盛りです。
この画像は、スマホにDLしたアプリ、PaperCameraで撮ったものです。
鉛筆風にしたり、いろいろ面白く撮れる優れものです。
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伏見区誕生80周年記念事業伏見連続講座 シンポジウム・展示「伏見築城とその時代」にやってきます。
これまで開催された単独の伏見場講座は20人くらいの時もありましたが、今回は記念事業の一環なので300人ほどが来ています。恐るべし。
伏見区役所も全面的に関わっているので、区長が冒頭あいさつをされます。
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最初に千田嘉博奈良大教授が「描かれた伏見城ー秀吉とふたつの極楽橋ー」で講演をされます。
この方は、テレビにも出てるので、有名らしいです。
画像の絵は、名古屋市博物館寄託の「洛中洛外図屏風」の伏見城です。
僕もテレビで特集を見たことがあるのですが、オーストリアのエッゲンベルグ城の壁か、天井に貼られていた豊臣期の大坂城屏風が大発見され、最盛期の豊臣期の大阪城下を描いたものとして多くのことが分かったようですが、そこには極楽橋が描かれています。これは現在、琵琶湖の竹生島に移築をされていますので、いつか見にいきたいものですが、極楽橋は北に付いていて、淀川を京まで、秀吉さんが上るときにその橋を通るためだったものとか。
逆に勅使なども迎入れることもあったのでしょうか。

その極楽橋が、画像の伏見城にも描かれていて、そのあたりの話をされます。
学問所とか、権威の象徴としての伏見城が浮かび上がります。
今、現地は明治天皇陵で宮内庁管理のため、発掘調査もできなようです。
伏見城は、家康、秀忠、家光が将軍宣下も受け、秀吉時代は公儀の場として、日本の中心であったにも関わらず、謎だらけです。
第一期伏見城と言われる城は、大地震で倒壊しますが、これがあった場所が、指月の森の指月城とも言われますが、御香宮神社宮司で、伏見城研究会代表の三木宮司は、場所は未だにはっきりと断言できるものがないと言われます。文献がでるか、発掘するかしかないようですが、指月のところは、公務員官舎が建っているところですから、建て替えとかはなのでしょうか。

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区役所1階では、伏見の古絵地図が展示されています。
47点も展示されていますが、伏見にあった大名屋敷とかが、今も地名として生きていますが、区分がええ加減なので、位置関係がなかなかすっきりとしません。
今は、御陵なのでだめですが、伏見桃山キャッスルランドの跡地は、スポーツ公園ではなく、歴史テーマパークとかになってほしいと願う、いち京都市民です。京都市さんお願い。

伏見学2011

Posted by kazunhana on 22.2011 伏見学 0 comments 0 trackback
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また陸軍第16師団の聖母女学院にやってきました。
伏見学の講座です。
前回は、運動会をやっていて人で一杯でしたが、何もないと誰もいません。
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会場に入ると、200人はいるようです。
前回は、300人弱で過去最高だったようです。回覧板が効いているとか。
僕のように、歳を取ると、物理、数学にはうるさくないけど、歴史にはうるさくなる。昔のことを語りたくなるのは皆さん、同じなのでしょうか。

今回は、城南宮宮司の鳥羽重宏さんが講師です。
46歳だそうですが、第十何代だったか、宮司さんです。
「都と城南を結ぶ道ー古代の「作り道」~近世の「車道」ーという講演をされました。
昔は、大阪方面や近江方面からの物資などは、4本の道で鳥羽、伏見から都に行ったようで、鳥羽の作道の話をされます。城南宮は、平安の香りがして素晴らしいのですが、たくさんの方に来て頂きたいとのこと。
洛南は、昔は城南と言われていたとか、興味深い内容です。
つくづく池が埋め立てられたのは残念です。鳥羽離宮、平安の風景を再現してほしいものです。

伏見学2011 秋の公開講座 「伏見の町の鉄道史」

Posted by kazunhana on 01.2011 伏見学 0 comments 0 trackback
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久々に聖母女学院にやってきます。
チキチキが伏見学の講座に登録しているので、案内が来ました。
早速、地元の運動会がある中、やってきます。
女学院も人で一杯です。やっぱり運動会をやっています。
講座の方は、看板の写真のように5回シリーズのようです。
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会場に入ってみると、前回と違って、ギュウギュウで座る場所がありません。壁際にも人がいて、定員200名とありますが、300人ぐらいいるのでしょうか。1時間前から人がきだしたようです。恐るべし。
京阪グッズが貰えると書いてありますが、到着したときは、跡形もなく、講座資料も後刷りをされていました。
講師は、近畿大学教授で、京都大学鉄道研究会OBの西城浩志先生です。
京阪電気鉄道と奈良鉄道の歴史をPPTで説明されます。
京都駅も開業当時の写真と位置図をもとに、歴史を話されますが、鉄道の歴史を知らないものにとっては、とても参考になりました。
ほんとうに関西の鉄道の生き字引のような方です。
特に、京阪がまずは五条まで北上して、その後、三条まで伸びるのですが、開業当時の写真があって、最初から土手の上を走っていなかったことがわかり、びっくりです。
京阪ロマンスカーの当時のチラシなど、面白い話を聞かせていただきました。
また、京阪の良さとして、三条駅に行けば、特急が早めに待ってくれたりして、利用者にとっては、大きな魅力というのは、なるほどと思いました。今なら、出町柳になるのでしょうか。電車の中で待てるのが良いとか。
大阪から大津まで、直行電車が一時あったとか。僕も昔の京津線はよく利用しましたが、鉄道の規格が一緒なのでしょうか。京津線は小さかったような印象があるのですが。
伏見って、鉄道ファンにとっても、ネタが豊富なところということを改めて認識しました。

伏見の町名1

Posted by kazunhana on 23.2011 伏見学 0 comments 0 trackback
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伏見には、豊臣秀吉が築いた伏見城の大名屋敷などが由来となった町名が多いのですが、フラフラ歩いていると町名の表示が気になりますので、写真に撮れたものから記していきます。
まずは「京町大黒町」です。
大黒さんからきていることはわかりますが、秀吉公の持念仏であった「朝日大黒天」像 (←クリックすると大黒さんが見られます。) が、伏見城にあったのですが、これが一時、この地に預けられたことによるとのことです。
今、この大黒天は、伏見区役所と大手筋の間にある浄土宗の源空寺にあるようです。
このお寺の前は、よく自転車で通るのですが、まだ写真に撮っていませんので、またの機会にします。
慶長年間に、徳川家光が、この寺に朝日大黒天像を授けたことから、当時はこのお寺は「新大黒町」と呼ばれるようになったようです。
この大黒さんは、秀吉が出世することになったので、出世大黒天とも呼ばれるとか。
そういえば、二条駅の千本を上ると、出世稲荷がありますね。
出世を極めた豊臣秀吉らしいですね。感謝の念は強かったのでしょう。

洛南歴史フォーラム

Posted by kazunhana on 02.2011 伏見学 0 comments 0 trackback
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4月2日、午後2時から乃木神社内において、洛南保勝会による洛南歴史フォーラムがあると聞いていたので、やってきました。
既に一杯です。実はハガキでの事前申し込みで、定員オーバーの状況だったようですが、それを知らずに飛び込みましたが、少し席が空いていたので入れていただけました。
講師は、中西輝政先生(京都大学大学院人間・環境学研究科教授)です。
先生は、高坂正堯先生のお弟子さんとして、また保守の論客としても有名です。
言いたいことを言いすぎて、マスコミからは嫌われているので、テレビとかからは声がかからないとおっしゃっていました。日本のマスコミや民主党には、日本の国益と言うものをしっかりと考えて欲しいものですが、現状の構図では無理かもしれません。国民一人一人が気付くしかないと思います。
今は、ネットの世界なので、テレビ新聞ではなく、ネットに注目です。海上保安庁の映像流出もそうでしたよね。
本当の真実とは何かを知らないといけない時代になりました。これまではテレビ新聞に誘導(洗脳)されていましたから。
ところで、中西先生の講演は、乃木神社で、まさに乃木大将の話でした。
先生の話では、乃木大将は、昭和までの日本人の心を体現する人物だったと言われます。
昭和15年に東大生に、尊敬する人物はだれかとアンケートしたところ、1位は西郷隆盛、2位は吉田松陰、3位はゲーテ、4位が乃木希典だった。しかし、昭和45年にNHKが行った調査でも、4位が乃木希典だったということで、乃木希典という人物がいかに、日本人の心をとらえていたかが分かるという話です。
先生ご自身も、幼少の頃、母親から乃木大将の逸話を聞かされ、しつけられて育ったとのことです。先生は昭和22年の戦後生まれにも関わらずです。
戦後、GHQは戦前の軍国主義思想をなくすべく、乃木大将を歴史教科書から除く指示を出すようですが、家庭では、祖父母、両親から乃木大将の話を聞きますから、45年あたりまではその影響は大ということでしょう。
しかし、そこから40年たち、今、乃木大将のことを知る人たちはどれだけいるのでしょうか。
今、まだNHKの坂の上の雲がまだ完結していませんが、先生は司馬遼太郎の乃木大将が愚将という説に異論を唱えられます。戦術の面からもです。司馬遼太郎の歴史観自体は、日本は太平洋戦争までは良かったというものだと読んだことがあるのですが、大戦でおかしな方向に暴走したということでしょうか。
乃木大将は、明治天皇の後崩御の日に、御夫婦で自決をされ、多くの日本人の心に残ったのでしょうけど、もっと他にも庶民の心の中に残った乃木大将の人物像というものがあります。僕ももっと知りたいと思っています。
先生は、1970年代にイギリスに留学をされ、そこでは戦前の日本の書物が多くあるのですが、それらには戦後の日本の書物にはない、純粋なしっかりとした根拠で書かれた歴史書があることに気付いたと言われます。
それは、戦後、GHQにより、それらが焚書にされ、日本を敗戦国として、悪者にしなくてはいけない都合があって、それらの多くが、市中から消されていって、今の自虐史観が育ったということだと、僕も確信しています。
今、この大災害の中、明治の日本人を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。
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サクラが咲き始めた乃木神社です。

伏見の歴史11(歴史講座 伏見を探る)寺田屋は焼けた?

Posted by kazunhana on 19.2011 伏見学 0 comments 0 trackback
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今日は土曜日です。
今週は、ほんとうにあっという間に終わった感じです。
で、今週も伏見講座にやってきました。チキチキは、少しは良くなった感じですが、まだ長時間椅子に座ることは禁止されているようです。負傷欠場です。
今週の講師は、京都市歴史資料館の伊東宗裕さんです。テーマは「鳥羽伏見の戦いとかわら版」です。
江戸末期に出されたかわら版のコピーを示しながら、話を進められます。
京都であった天明大火(1788年)のとき、出版されたかわら版が最初らしいです。
それ以降、大きな火災の度に、かわら版がだされるようになり、しかも、絵図上に火災範囲を示すだけ物から、火災情報を付けたもの、それから見出し付き色刷り版などになっていったようです。
色刷り版となると、手が込んでて、紙質もよく、おそらく、商品としてうられていたと考えられるとのことです。
京みやげにしたり、火災の模様を他に伝えたりしたようです。
おみやげという形で、長期にわたり出版されたようです。
元治大火では、京都御所も焼けたようですが、このときはこの三段階がはっきりしていて、速報版、詳細版、記録版みたいなそんな感じだったようです。
鳥羽伏見の戦いの時は、見立てという手法が取られていて、歴史上の別の場面を持ってきています。
秀吉と光秀の山崎の合戦場面を持ってきていますが、これはその当時、お上のやることには、あえてふれないようにするという、京都ならではの生き残りDNA、文化なのでしょうか。

最期に、あの寺田屋が焼けていたのかどうか、それついての解説がありました。
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上は、今日の寺田屋ですが、2008年9月に、新聞で読まれた方も多いと思います。僕も読んで、えっーーー知らんかったと、茶ならぬ、コーヒーをブッーです。
地元の人などは、事実として知られていたとは思いますが、京都市観光課のホームページに寺田屋が当時のものとして出ていることについて、週刊ポストが、ホンマ?っと突っ込んだようです。
職員もそんな説もありまんなぁ、で済ませばいいところを調べますと言ってしまって、結局、燃えていたと吐いてしまったような。
伊東先生は、来歴が異なる資料が、それぞれ矛盾がなく、資料の収れんがあり、歴史的事実と認められるということです。
どんな資料があるかというと、①寺田屋の空き地の薩摩藩士の碑文の中に、寺田屋の遺跡と書かれている。
②明治10年、朝日新聞の西村天囚が、寺田屋は焼けて今はないと書いている。③当時のかわら版のすべてに、消失範囲の中に寺田屋が入っている。
等々に矛盾なく、説明がつくとのことです。

昭憲皇后(明治天皇の后)が、日露戦争のとき、坂本龍馬が夢枕に立ち、ロシアに勝てるといったとかで、龍馬ブームが起きたようですが、そのとき、焼けて更地のままの寺田屋跡に、再建しようということになったが、既に薩摩藩士の碑が建っていたので、維新の聖地を撤去できないし、そこを除いて再建となったようです。
敷地は京都市有地となっていたのですが、つまり、龍馬を守った寺田屋を再建し、その営業収益で守っていこうということで今日まできたのでしょうか。
しかし、僕も見たあの龍馬の刀傷は・・・・・・・・・んー。
伏見の住民となったものとしては、あまり細かいことは言わないようにしましょう。
伊東先生もこの説を発表してからは、いろいろ苦情が寄せられて困ったと、おまえが見たんか、かわら版で何言うとんねん、などと追求されたらしいです。

詳しくは資料も出ています。 ここをクリック

伏見の歴史10(歴史講座 伏見を探る)

Posted by kazunhana on 12.2011 伏見学 0 comments 0 trackback
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今週も、伏見区役所です。
チキチキは、今回も負傷欠場です。まだ椅子には20分以上は座れないようです。

今日の講師は、京都国立博物館学芸部考古室長の宮川禎一さんです。
演題は「坂本龍馬と伏見」です。
博物館では、坂本龍馬の手紙などの資料を保管されていて、先生はその担当をされているとのことです。
昨年、大河ドラマを見られた方も多いと思いますが、坂本龍馬といえば、伏見の寺田屋での遭難事件が有名ですよね。特に、おりょうさんが、五右衛門風呂から2階へのシーンとか。
映画などでも、寺田屋の前には、船着き場があって、いかにも港風なのですが、実際、川幅は現在の5倍はあったようです。今でも、その周辺は伏見港と言いますが、京都以外の人は、なんで海のない京都で港なんやろと思われるのではないでしょうか。
ところで、龍馬は手紙をよく書いたようですが、脱藩して、薩長同盟を画策しているときなどは、お尋ね者となっていて、その間は、薩摩藩士の名前を使って、土佐から物などを届けさせていたようです。これは薩摩の公認を得ていたようです。
講座では、伏見鳥羽戦争図などの説明があり、遠藤蛙斉筆による絵図では、伏見奉行所には、お城にある櫓があるじゃないですか。今の二条城のようではありませんか。
伏見では、この伏見鳥羽戦争で多くの物が焼けてしまったのですが、京都ではこの幕末の戦乱がなければ、多くの文化資料などがたくさん残ったのではないのかと思うと、残念です。
他にも、日本名所風俗図絵にある伏見京橋の賑わい絵や船宿の活気ある情景が紹介されました。
この名所風俗図絵は僕も持っています。またじっくりと読みたいです。

伏見の歴史9(歴史講座 伏見を探る)

Posted by kazunhana on 29.2011 伏見学 0 comments 0 trackback
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今日もまた講座にやって来ました。
今日は「伏見城下町の町屋」というテーマで、京都工芸繊維大学で建築史を専門とされる日向進教授です。
洛中洛外図屏風や職人絵尽、京雀などに描かれている町屋の様子をもとに、町屋の特徴を説明されます。
この先生は、茶室の本とかも書かれていますが、中村昌生先生とも関係が深いのかとも思ったりします。
高槻市のある家から発見されたという洛外図屏風を紹介されますが、伏見城下町部分は、雲に覆われていて、描かれてはいません。
町屋の様子は、描かれています。淺瓦らしいです。町屋は火災になると、延焼を防ぐために、つぶし易いように軽い淺瓦だそうです。重さのある本瓦だと、柱とかを付託しないと持たない、そうなると、つぶすのが大変ということらしいです。値も張るのでしょうけど。
本瓦は柱を太くできる神社仏閣となります。
僕は、町屋に住みたがったくらい、町屋が好きなのですが、この日向先生も、西洋建築に興味があったのが、ある日、町屋の坪庭をみて、ビビッと来たらしいです。それ以来研究をされるようになったと話をされていました。
坪庭って、一般の家で公開されていないものとか、沢山あるのではないでしょうか。

伏見の歴史8 「連続講座 伏見を探る」

Posted by kazunhana on 22.2011 伏見学 0 comments 0 trackback
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伏見区役所にやって来ました。
チキチキは椎間板がまだ、痛みがとれず、座り続けられないので、負傷欠席です。早く良くなってほしいものです。
今日の講師は、京都府立大学で歴史地理学を専門とされる上杉和央先生です。
古地図を使い、江戸時代の伏見を探ろうというものです。
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先生が持ってこられた古地図にみんな集まって、情報交換です。
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城南伏見地図。
森幸安という人により、江戸時代1751年に発行されたものです。
当時、そこそこ売れたようです。
地図の真ん中には、桃らしき、ピンクで描かれているエリアがあります。広大ですが、桃山の由来となった桃の花が一杯だった頃を描いたものでしょうか。
1750年頃には、桃はすでになかったようなので、森幸安の師匠が、若い頃には、まだ桃の時代、伏見城の時代を知っていた人がまだ生きていて、伝聞で描かれたというのが、先生の話にもあったかと思います。
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グループに分かれて、1752年の近世伏見地図に描かれている主なものを現在の地図にトレースしてみます。
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まずは、御香宮神社、伏見奉行など大きなものから、現在の場所に落としてみます。
大手筋など、主な通りは当時と変わっていませんので、大体、比較はできます。
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伏見好きで、歴史好きの方々です。
伏見を語ると、みんな熱いという感じです。

伏見の歴史7 (連続講座 伏見を探る)

Posted by kazunhana on 18.2010 伏見学 0 comments 0 trackback

今日は土曜日で、伏見の講座の日ですが、チキチキが頭痛で無理と言いますので、一人で行くことにします。
いつもの伏見区役所の会議室です。
講師は、本講座の主宰者でもある京都府立大学の堀内先生です
テーマは、「伏見城下町の都市構造」です。

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伏見の城下町は、大手通りに直行する通りが、町通りであるという、「ヨコ町型城下町」ということで、大手通りが町通りであれば、タテ町型城下町というらしい。
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伏見の地は、秀吉以前は、伏見宮家が九つの郷を支配していましたが、1589年、秀吉の検地により、解体というか、再編されました。
1592年に、秀吉が、隠居所を伏見に造ろうと決め、1593年に城を築き始めたと、歴史資料にあるようです。
併せて、城下町の整備も始まり、大名屋敷が造られ、茶会がよく開かれました。
しかし、慶長の大地震が、1596年に起こり、初代伏見城(指月城のこと)が倒壊されてといわれている。
伏見の城下町の特徴としては、城郭の周りに、大名屋敷、次いで町屋群、そしてまた大名屋敷とあり、大名屋敷群が町屋群を囲んだ形にあったことだそうです。
既存の町に、大名が入り込んだということでしょうか。江戸もそうだと思うんですが、地方の城下町などは、周辺が町屋群で、混在はしていないと思っています。
また、チキチキに聞いておきます。
江戸時代に入ると、伏見城も廃城となり、伏見奉行とともに、町も歩んでいったようです。

ところで、金曜日の新聞だったかに、京都検定の問題と解答が出ていました。懐かしくみました。
最近は、検定ブームも去ってしまったのか、周辺では聞くこともありません。
僕も、3年目までは、この時期、検定に熱中していましたけど、1級合格で目標を失ってしまいました。合格証で、期間限定ですが、美術館、博物館などの入館料が無料になるようです。でも、使える期間が1月あまりとか、短くて、1回も使ったことがありません。
毎年、1級を連続して合格し続ける人もいるようですが、受験料も高いし、例えば、5回合格すると、マイスター証がもらえ、どうせなら、市内のお寺の拝観料が、永久に、全てタダとかにならないかな。あっ、商工会議所の人、すみません。
どうも、動機が不純でいけません。純粋に京都ファンとして、京都を勉強しないといけません。
ネタが尽きないのが、京都の歴史のすごさです。千年の都です。

伏見の歴史6 (歴史講座 伏見を探る)

Posted by kazunhana on 11.2010 伏見学 0 comments 0 trackback
fusimikouza1.jpg恒例の歴史講座「伏見の遺産を考える!伏見を探る」に来ました。
今日のテーマは、「文献及び絵図史料からみた近世伏見」で、講師は甲賀市市史編纂室の伊藤誠之さんです。
伏見は、秀吉、家康の頃、まさに日本の政治の中枢、首都であったといえるのですが、講師の話では、伏見の研究には遅れが目立つということです。
どうも、文献=古文書が不足しているようです。整理も不十分だそう。
伏見の研究は、近世近代史研究にとっても重要だそうです。
この講師は、江戸時代の伏見絵図を使い、説明をされました。
絵図は、江戸時代の伏見のエリア、すなわち伏見奉行所の管轄を示したものです。
初代の伏見奉行は、茶道とか、庭好きの方なら、よく御存知の小堀遠州です。あちこちのお寺には、遠州作と言われる庭が多いですよね。当時、ブームだったようで、遠州風を遠州作としたものもあり、年代が合わないものもあるようです。
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画像が小さく、見えないですが、わがモモヤマトルの丘の当時の様子が描かれています。
また、桃山とか、桃山時代と言いますが、桃山と言いだしたのは明治以降です。
出席者の常連のじいさんは、桃山と教科書に書かれたのは、戦後だと、それまでは信長時代とか、秀吉時代と言っていたと持論を披露されていました。教科書としては、GHQがどうのこうのとも言われていましたので、僕も調べて見ることにします。
絵図にもあるのですが、伏見城周辺は年貢地になっています。伏見城廃城後、伏見町周辺の堀内村の人たちなどが、年貢を納めるために、あたり一面に桃を植えて、桃を売ってお金にして、年貢として収めたようです。城周辺は丘陵地で、田とか畑にはむかず、果樹園として使ったようです。この桃が素晴らしく、桃山の地名になっていったようですが、今はないですよね。それどころか、そのあと、すぐに梅に変わっていったようです。
それより、出回っている伏見の絵図には、偽物と言うか、間違った合成をされているものが多いとか、それがあちこちに貼ってあるとか。見分けられるようになりたいです。
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伏見の歴史5 (伏見城研究会講座)

Posted by kazunhana on 04.2010 伏見学 0 comments 0 trackback
伏見城講座
今週もまた伏見城研究会の講座にきました。
参加者の顔ぶれも、だいたい覚えつつも、年配者が多いです。
僕など、ここでは若造です。とにかく詳しい人が多いです。歴史が好きなんでしょう。
僕もそうです。いまさら、数式を覚えようとは思いません。でも科学は歴史以上に大好きですが。
で、今回は、「宇治川太閤堤跡の発掘調査と伏見城」というテーマで、宇治市歴史まちづくり推進課の荒川 史さんが講演をされました。
宇治市としても、この宇治川太閤堤跡が平成19年に、国の史跡に指定されたこともあり、史跡を保存し整備していこうと計画を発表されたばかりです。
この場所は、京阪宇治駅の北側のエリアになるのですが、区画整理事業でマンションを建てようと、掘っていたところ、石畳状のものが出てきて、なんだこれはとなり、進めていくと、護岸ということになり、いつのものだ、やっぱりこの大きなものは秀吉しかいない、太閤堤だとなったようです。
完全な堤ではなく、護岸部分じゃないのかという嫌な指摘もあるそうですが。
太閤堤とは、この一帯の堤を称するもので、小倉堤、槙島堤などもそうであるということです。
もともと、太閤堤により、宇治川の流れを変えるまでは、今の宇治市中心部あたりまで、川が西側に流れていて、それは、地図の等高線でも確認できるということでした。
そこに、秀吉が、堤を造らせたのですが、治水ということより、道とする陸運目的であったと説明されました。
併せて、秀吉は宇治橋を落とし、伏見につながる道を限定したようです。防御戦略上の観点については、前回の講座でも話がありました。
受講者の常連さんからは、宇治橋は当時も重要な橋であり、落とすなんて、信じられない、住んでいる人が困るじゃないか、文献にも残っていないじゃないか、何を根拠にという意見が出されましたが、講師の言われる通り、宇治の民衆の利便よりも、治世のことの方が優先する、これ当たり前田のクラッカー。宇治市の公式見解にもなっているようです。
巨椋池も、相当浅いもので、川の流れによって、周辺部分のエリアも相当時代によって変わってきたということも分かりました。今は、天ケ瀬ダムがありますが、当時はなく、相当、宇治川も氾濫していたようです。
近代に入り、人口の増で水質も悪化し、戦時中の食糧不足で、干拓をしようということになったのでしょうか。
もともと、月の名所であった場所、池に映る月は風情があったのでしょう。

伏見の歴史4(連続講座 向島城)

Posted by kazunhana on 27.2010 伏見学 0 comments 0 trackback
伏見区役所
今日は、土曜日です。
また伏見の歴史を学びに、チキチキと伏見区役所にやってきました。
天気も良く、気持ち良いのですが、写真は区役所裏手の公用車の車庫です。
なんと、周りの酒蔵のデザインに合わせてあるではありませんか。
いろんな建物がこうであれば良いのですが。
この庁舎はまだ完成してから1年たっていません。たしかこの1月完成だったと思います。

伏見講座3
この連続講座「伏見を探る」は中抜けがありますが、3回目の受講です。
今日は、京都文教大学の小林大祐先生です。
テーマは「徳川家康の向島城と伏見」です。
伏見城については、これまでも学びましたが、それと同じくして存在した向島城や淀城についてのお話を聞くことができました。
向島城がもし存在していたら、モモヤマトルの丘の我が家からも見えたかもしれません。
存在を示す詳細な文献が少なく、よくわからない部分も多いようですが、家康の下屋敷がベースになっているようです。よく大河ドラマで、三成が家康のところに逃げ込むシーンがありますが、どうやら向島城にだったとか。
指月伏見城と、その後の木幡山伏見城の一体的位置づけというか、附属的なものであったようです。
伏見城廃城とともになくなったようですが、現在は家が立ち並んでいるので、位置は推定でしかないようです。
淀城は石垣とかが部分的に残っているので、存在を知ることはできます。
いずれにしても、この地は、津といわれるように、港であったようで、太閤堤だけではなく、填島堤、小倉堤、淀堤など、船が通りやすくしたようです。
しかし、今回、長年の一つの疑問が解けました。
それは、京から大阪に船で下るは、川の流れからして理解できますが、逆をどうするかです。
エンジンもなく、上らんやろと。
今回、先生は、江戸時代の名所図会を示され、そこには、これら堤の土手で、5人くらいの人が、船を綱で引っ張っているではありませんか。そう、人が船を綱で、土手の上から、上流に引っ張っていくのです。
そこにこの堤の役割もあると。
また、秀吉が宇治橋を落とし、豊後橋(観月橋)をかけた理由として、防御面からということも説明されました。
宇治橋があると、山手側に回られてしまい、敵を発見しにくいということらしいです。
それと、向島という名は、巨椋池にある島かと思っていたのですが、島と言うより、浅い池のため、中州が連続していて、向野と言われていたようです。それを堤でつないでいったとのこと。
住んでいる所の歴史なので、自分の足で歩いて確かめたいです。近いうちにとは思っているのですが・・・・。

伏見の歴史(伏見学) 聖母女学院にて

Posted by kazunhana on 20.2010 伏見学 2 comments 0 trackback
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今日は、ようやく土曜日です。
前夜は、東京から新幹線で、京都まで立ちっぱなしで、ヘロヘロですが、聖母女学院にやってきました。
伏見の藤森にあります。
京都の人なら、陸軍第16師団司令部として、知られてます。明治46年、1907年竣工です。
設計は陸軍省の建築部となっています。有名建築家ではないようです。大戦中は空襲を避けるため、レンガを黒く塗っていたとか。
師団街道という名のついた道路もあるくらいに、大きな師団だったようです。京阪電鉄藤森駅も、昔は師団前という駅だったとか。
現在は、聖母女学院の法人本部となっています。
中は、土曜日なので、しまっていました。師団長室とかを見て見たいです。
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この本部の周りに、聖母女学院の幼稚園、小中高、短大が囲んでいます。
幼稚園から、短大まで学ぶ人もいるのでしょう。ずっーーと同じ場所でというのも、どうなんでしょう。
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こちらが、短期大学です。
カトリックの学校なので、十字架があり、礼拝堂のようです。
ところで、ここに何しに来たかと言えば、チキチキ御推薦の「伏見学」の受講のためです。
伏見に引っ越すまで、知らなかったのですが、今年で12年目、75回目の講座とか。過去の講演録も出ているので、読んでみたいと思います。
CIMG0302.jpg教室の中に入ると、100人を超える人が、熱気ムンムンです。
今回の講師は、淀川水系流域委員会委員でもある宮本博司氏です。
この方は、たまにダム問題などでテレビにも出られるので、御存知の方も多いでしょう。
京都の木屋町五条で生まれ、旧建設省に入られ、本省でダムの審査をされ、近畿地方整備局の河川部長や、淀川河川事務所長もされていたにも、かかわらず、ダム優先の国の路線に疑問を持たれ、反旗を翻した方です。
今回の伏見学からは離れつつも、現在の河川整備の在り方は、生命軽視であると、指摘されます。
要は、ダム建設を進めるために、河川整備があえて、ダムを必要とするようにと、危ない状態に置かれているということです。
伏見で言うと、太閤堤が数年前、発掘され、大騒ぎになりましたが、この太閤堤は秀吉が、伏見城を造営する際に、巨椋池に流れ込んでいた宇治川の流れを堤防により、伏見城側に外濠として変えたもののようです。
秀吉について言えば、現在の土木工事につながる数々の工事をしています。
有名なところでは、墨俣城、長浜城、姫路城、大阪城、聚楽第、御土居、寺町、伏見城、方広寺大仏殿などなど。
普請狂と言われる所以です。
敵城の水攻めでも、川の流れを変えています。
ところが、宮本博司氏は、太閤堤は、今なお、周辺に暮らす人々を洪水の危険にさらしていると批判します。
つまり、水の流れを堤によって強引に封じ込めるという剛腕手法であり、決壊の危険性が高いということです。
今、この太閤堤の上を近鉄電車が通っているようです。いわゆる天井川状態。大阪市内も淀川、大和川が非常に高低差がり、危険ということです。
宮本氏は、この水を押し込める剛腕手法ではなく、桂離宮のような自然に逆らわない柔軟な、水を逃がす手法が被害を少なくすると主張されます。
桂離宮は、高床式で水が浸水しても上に水が上がらないようにし、生垣がゴミなどのフィルターの役割をするようです。そのため、桂川という氾濫河川から、400年も守ってきたとのこと。
昔は、堤防も要所要所のみに造られ、水を逃がしていて、現在の河川工事のように全てを堤防で囲むことはなかったようです。全てを囲むと、決壊という大被害が生じます。小被害を10年に1度出すのか、50年に一度、大被害を出すのか、どちらを取るのかという選択かと、私は理解しました。その前提として、大雨はいつくるのか計り知れないということです。
また、宮本氏は、現在の霞が関が、現場も知らずに、机上で物事を決定しているシステムを変えないと、日本の将来が危ないと警鐘を鳴らされます。氏自ら、ダム建設を机上で決定していた立場からの指摘でもあり、説得力があります。霞が関一極集中、護送船団方式で、高度成長時代は威力を発揮しましたが、その発想が現在も変えられないことが、日本の停滞を象徴しているのではないでしょうか。
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これは、茶っーを飲んで、気合いをいれるチキチキです。
宮本氏の講演は、機関銃のようであり、眠気どころではなかったようです。
次回の伏見学は、道がつくる伏見の風景と観光というテーマですが、伏見城研究会の講座とダブっています。
チキチキは城研究会の方に行くようです。
どうするか、思案します。

伏見の歴史2

Posted by kazunhana on 16.2010 伏見学 0 comments 0 trackback
CIMG9790.jpg今日は、また伏見城研究会主催の「伏見の遺産を考える!伏見を探る」歴史講座にやってきました。今回は3回目なのですが、実は、2回目はチキチキが仕事で出かけたので、うっかりと欠席でした。
2回目では、同志社大学講師の関口 力さんから「橘俊綱と伏見殿」についての話が聞けたところでした。
しかし今日、行ってみると、その回の講演録みたいな形で資料が配布されていましたので、助かりました。
資料を見てみると、橘俊綱は、平等院で有名な関白藤原頼道の次男で、伏見に数寄を凝らした別邸(伏見亭とも、伏見山荘とも呼ばれた)で、歌人を集め、「伏見の会」という和歌の会を開いていたらしいです。
庭も造営したらしく、資料に日本最初の造園専門書の作庭記が引用されています。これに基づいて造園されたのか、橘が作庭記の作者なのか、作者は不明とされていると思いますが、どうなんでしょう。
この伏見の別邸は、いろんな和歌集に歌われていますので、和歌に詳しい人はよく御存じなのでしょうか。別邸は、御香宮神社の南東あたりにあったのではと言われているらしいです。
いずれにしても、一時、文化の花が開き、文化の中心地でもあったようです。でも近くでは鳥羽離宮があり、そちらの方が有名なんでしょうけど。
さて、3回目の今日は、大山崎町教育委員会の福島克彦さんによる「豊臣期洛中洛外と伏見城」のお話を聞きました。この福島さんの話を聞くのは、滋賀県での城シンポジウムとか、高槻市でとか、3回目ぐらいと思います。
チキチキは、相当、何回も聞いているようです。
今回の話は、豊臣期の伏見城と徳川期の伏見城に分け、その実像にせまろうというものです。
僕も、秀吉の土木工事について書かれた本を、以前買ったのですが、見つけ出して読もうと思います。
洛中と洛外を仕切った御土居は有名ですが、伏見では、太閤堤があります。
お話では、この伏見が、一時、日本の公議の場、政治的首都であったということと、城下町であったということを改めて認識しました。
そういう地、城のお膝元、モモヤマトルの丘に住めて良かったと思います。
京都は、たいてい、どこでも歴史ネタには困りませんが、伏見、おもしろいです。

伏見の歴史1

Posted by kazunhana on 18.2010 伏見学 0 comments 0 trackback
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チキチキが区民だよりを見ていて、伏見の歴史講座があるのを見つけました。
以前、この地に移り住むことが決まってから、伏見城跡をたどるツアーに参加したことがあります。
伏見桃山御陵、すごい原生林みたいな森が広がっています。
以前、京都御苑の近くで仕事をしていたことがあるので、京都御苑の中をよく散策したことがあるんですが、ここは山なんですね。
さて、講座はシリーズになっていて、伏見の歴史を講師が代わる代わる講演されます。
主催は伏見城歴史研究会で、共催が関西古文化研究会となっております。
初回は、「伏見の歴史研究」と題して、御香宮神社の宮司である三木(そうき)さんが、話をされました。
とてもおもろい宮司さんですが、伏見が川の要所、交通の要所であっため、伏見城が築かれ、徳川では廃城となったのですが、要所ということで宿場町として栄えたということです。伏見奉行は旗本より、大名が就くことがほとんどで、重要視されていたようです。
情報も飛び交う地として、坂本龍馬が寺田屋にいたのも、情報を集める目的があったからではということです。
秀吉が伏見城を築いて政治経済の中心となったのですが、その名残は日本初の銀座とか、地名にもあります。
また桃山にある各町名の由来も紹介したいと考えております。
京都はどこでも歴史のネタには事欠きません。
このシリーズは参加するとチキチキの鼻息も荒いようです。ブッフォー。
それどころか、伏見城研究会に入りたいようです。
城マニアの血が騒ぐのでしょう。
私も、京都マニアと自称はしています。京都検定1級も合格しましたが、最近は京都ネタに遠ざかっていますので、これを気に復活したいとも思います。
京都ネタの本の所蔵もそこそこです。大型書店の京都コーナーよりは充実しているかもしれません。
チキチキの城本には遠く及びませんが。
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伏見といえば、伏見の名の由来説のひとつでもある、伏流水が豊富で、お酒では、大変有名です。
黄桜カッパカントリーには、よく行きますが、この地に移り住んだからには、もっといろんな酒にも接したいと思います。
写真は、講座のあと、伏見総合庁舎1階に展示されている伏見の名酒です。
収集したい気がしてくるのはなぜでしょう。
  

プロフィール

kazunhana

Author:kazunhana
最近メタボ解消、でも筋肉がつり気味はひどくなる年齢に。
少し収集癖のある、1960年代を愛する20世紀少年。
嫁さんは城・戦国マニアで、チキチキマシン猛レース!

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