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伏見の歴史4(連続講座 向島城)

Posted by kazunhana on 27.2010 伏見学 0 comments 0 trackback
伏見区役所
今日は、土曜日です。
また伏見の歴史を学びに、チキチキと伏見区役所にやってきました。
天気も良く、気持ち良いのですが、写真は区役所裏手の公用車の車庫です。
なんと、周りの酒蔵のデザインに合わせてあるではありませんか。
いろんな建物がこうであれば良いのですが。
この庁舎はまだ完成してから1年たっていません。たしかこの1月完成だったと思います。

伏見講座3
この連続講座「伏見を探る」は中抜けがありますが、3回目の受講です。
今日は、京都文教大学の小林大祐先生です。
テーマは「徳川家康の向島城と伏見」です。
伏見城については、これまでも学びましたが、それと同じくして存在した向島城や淀城についてのお話を聞くことができました。
向島城がもし存在していたら、モモヤマトルの丘の我が家からも見えたかもしれません。
存在を示す詳細な文献が少なく、よくわからない部分も多いようですが、家康の下屋敷がベースになっているようです。よく大河ドラマで、三成が家康のところに逃げ込むシーンがありますが、どうやら向島城にだったとか。
指月伏見城と、その後の木幡山伏見城の一体的位置づけというか、附属的なものであったようです。
伏見城廃城とともになくなったようですが、現在は家が立ち並んでいるので、位置は推定でしかないようです。
淀城は石垣とかが部分的に残っているので、存在を知ることはできます。
いずれにしても、この地は、津といわれるように、港であったようで、太閤堤だけではなく、填島堤、小倉堤、淀堤など、船が通りやすくしたようです。
しかし、今回、長年の一つの疑問が解けました。
それは、京から大阪に船で下るは、川の流れからして理解できますが、逆をどうするかです。
エンジンもなく、上らんやろと。
今回、先生は、江戸時代の名所図会を示され、そこには、これら堤の土手で、5人くらいの人が、船を綱で引っ張っているではありませんか。そう、人が船を綱で、土手の上から、上流に引っ張っていくのです。
そこにこの堤の役割もあると。
また、秀吉が宇治橋を落とし、豊後橋(観月橋)をかけた理由として、防御面からということも説明されました。
宇治橋があると、山手側に回られてしまい、敵を発見しにくいということらしいです。
それと、向島という名は、巨椋池にある島かと思っていたのですが、島と言うより、浅い池のため、中州が連続していて、向野と言われていたようです。それを堤でつないでいったとのこと。
住んでいる所の歴史なので、自分の足で歩いて確かめたいです。近いうちにとは思っているのですが・・・・。


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Author:kazunhana
最近メタボ解消、でも筋肉がつり気味はひどくなる年齢に。
少し収集癖のある、1960年代を愛する20世紀少年。
嫁さんは城・戦国マニアで、チキチキマシン猛レース!

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